デモクラシーの政治学

デモクラシーの政治学

これまた大変遅まきながらでお恥ずかしい限り.といっても自分の研究に関連したところはちょこちょこ目を通してましたが(福元さんとか,谷口さんとか).でも最初から最後まで一応読み通したのは今日がはじめてかな.
 いろいろ面白い議論があるのですが,今日の私にとってもっともキャッチーだったのは杉田敦さんの

フェミニストたちが明らかにしたように,特定の領域を非政治的として政治の外部に追い出してしまうことこそが,実は最も政治的な意味を持つからである」(p.93)

でしたね.

 以前ある同業者の方が,「自分は官僚制と議員は扱うが有権者は扱わない.官僚と議員は政治の主体だが,有権者は基本的に政治の主体ではなく,客体だから」と言う趣旨の発言をしていたことを思い出す*1
 あと政治参加論が基本的に社会運動論を扱ってこなかったことも.この本の福元論文はその点で貴重な例外ですが."policy window"の議論にあるように,ある種の問題が政策アジェンダに乗るためには,社会の窓ならぬ政策(過程)の窓が開かれないとならんのですな.そうでない潜在的政治争点は「非政治的」問題としてのレッテルを貼られると.政治学ってのは政治化した問題,すなわちpolicy windowに飛び込んだ問題しか扱わないのが原則なので,その分保守的に見える部分がある.
 ただ政治参加と社会運動を区別する際にThomas Rochonのように,「政治参加の目標は政府政策の変更.社会運動の目標は社会における価値観の変革であり,政府の政策を社会運動が変更できたとしてもそれによって社会の価値観が変わらない運動の成功とはいえない」のだとすると,社会運動は仮に政治参加的側面を含んでいたにせよ,それにとどまるものではなく,いっしょくたにして論じることには無理がでてくる*2.社会運動と政治参加はいずれもactionであり,そのためのリソースには共通性があるから,資源動員論的視角から政治参加を論じることは可能である*3.政治参加と社会運動が共通の土俵で論じられた実例はあまりない(日本では以前もここで紹介した

脱原子力の運動と政治―日本のエネルギー政策の転換は可能か

脱原子力の運動と政治―日本のエネルギー政策の転換は可能か

くらい).可能性としては,「政治的機会構造から排除されたものが社会運動化する」といったような仮説を立てて,それを検証することかなと漠然と考えているのだが,どうやって検証したものか.
 検証できないものには禁欲して言及しないというのが実証分析者としては正しい姿かもと思いつつ,検証できるかどうかはともかく仮説としてアイディアを提示してもいいんじゃないかとも思っています.検証可能性は時代のテクノロジーに拘束されていることがありますので,その拘束がなくなれば検証可能になるわけですから.
 ただ,検証できないことってなんとでも言えてしまうところが問題で,この場合,言明の説得性は往々にして文章力に依存してしまう.こうなるとうまい文章を書ける人に騙されがちになるということで,これはまずい.ま,基本的にはわれわれにとって真実は不可知なので,すべての仮説はuncertainで,現時点でそれを排除する理由がないからさしあたり話半分で聞き置くといった手続に依拠せざるをえませんわな.

*1:いや酔っ払っていたときのうろ覚えですから,「それ誰」とか突っ込まないで下さいね.あと別の先生のお話としての又聞きで「マスにイデオロギーはない」というコメントも耳にしたことがあります.

*2:元論文未確認です.昔草稿で読んだだけなので.さすがにもう公刊されていると思うが.

*3:今年の春の選挙学会で報告されていた春木育美さんの韓国議員リクルートメント研究はまさにそれだし,私の未公刊な後援会研究もそう.