もともとあんまり雑誌を読んだり買ったりする方じゃないと思うのだが,森達也の連載があることもあって『月刊PLAYBOY』は最近よく立ち読みする.この9月号は思わず買ってしまった.
PLAYBOY (プレイボーイ) 日本版 2005年 09月号
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2005/07/25
- メディア: 雑誌
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麻原の3女が和光大学受験を決めた理由は,この大学が「A」「A2」(森達也が作成した映画)の学内上映会を何度か企画し,森が教員たちに「アーチャリーが自分を受け入れてくれる大学がないのでは悩んでいる」という趣旨の発言をしたら,教員たちが「ウチにくればいい」と返し,それを森が彼女に伝えた,ということであるらしい.
和光大学といえば,私にとってはたとえば岸田秀のいた大学であり,竹田青嗣が早い時期から差別論の講義をしていた大学として記憶の中にある.そして彼女の入学拒否を決定したときの学長は三橋修.彼の仕事をきちんと追ったことはまだないのだが,私にとって彼の名は
- 作者: 石田雄,三橋修
- 出版社/メーカー: 明石書店
- 発売日: 1994/04/15
- メディア: 単行本
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森は「彼がもし学長でなく一教員だったなら,大学のこの決定に,きっと率先して反対しただろうと考えた」(p.99)と書いている.そうなのだろうなと私も思う.ここに第1の困難がある.一個人の立場なら「No」と言えることが,組織の代表になると言えなくなるのである.もう1つの困難は,自分がいつ差別する側になるかもしれないということだ.
何が和光大学をして入学拒否という選択をさせたのか,具体的には私は知らない.しかし,自分の職場が同じ状況に直面したときに,麻原の娘を受け入れたことによって受験生が減るかもしれないとか,OBからクレームが来るかもしれないとかいう懸念を持つことはあるかもしれない.合格を認めたときの困難も容易に想像できる.有名タレントを受け入れる時の大学の苦労話は耳に親しい.しかも有名タレントは名声によって大学を宣伝してくれるが,「麻原の娘」というラベルにそれは期待できない.私立大学はビジネスのロジックから自由ではありえない.
でもこれは,被差別部落出身者との婚姻を拒むのとまったく同じロジックだ.差別論を論じ著作をものしてきた三橋に彼女が教育を受ける権利が守れないのなら,誰に守れる?
森は書く.
「率直に書けば三橋は,学者として晩節を汚したのだ.その覚悟はしていると思う.しかし彼の覚悟など,正当な理由なしに入学を拒絶された三女にとって何の意味もない.」
「人は例外を作る.そしてこの例外が,いつかは共同体を内部から侵食する.差別問題はこうして増殖する.その覚悟すらないのに差別問題の研究になど取り組むべきでない」
この主張はけちのつけようのない正論だ(後半部は日本語としてあまり洗練されてないと思うが).しかし大学に限らず組織は往々にしてそのような正論と別のロジックで意思決定を行う.差別論を論じてきた教員が目の前で差別に加担するのを見たとき,学生は何を学習するのだろう.
しかし面白いのはこれを書いた森が和光大学の教員たちとの話し合いの末に依頼されていた非常勤講師を引き受け,今も務めているいうことである.以前から和光大学で非常勤をしていた大塚英志は大学の入学拒否決定に憤慨して即座に辞任したらしい.いろいろ後日談がまたありそうで楽しみである.
それはともかく,麻原の三女は現在和光大学に対して損害賠償を求める民事訴訟を行っている.次号の『PLAYBOY』ではそこで出廷した三橋の発言記録についての森のコメントが載るようで,私はまた来月も『PLAYBOY』を買うことになりそうだ.
ところで森はこの記事の中で三女が訴えている和光大学以外の大学を「武蔵大学」と言っているが,私のうろ覚えでは「野」がついたような気がしたのだが,
どなたかご存知じゃないですか?にしても和光ばかりが取り上げられているようで,ある意味気の毒だが,まあこれまで反差別をある意味売り物にしてたところのある大学だからしゃーないのかなあ?
いずれにせよ,個人が個人としての資格で発言し続けることの難しさと,いつ自分が差別する側に回るかもしれないことをこの事件は思いしらせてくれる.
結局のところ,言論の自由とか思想の自由って個人によって担われる他はないということですかね.組織,集団のロジックでものを言おうとする途端に,差別する側に加担させられる羽目になったり,信じてもいないことを主張しなければいけなくなると.
人は集団を作ってそこに帰属しないと生きていけなかったり,生きていくことが難しくなったりします.その利便性と言論の自由は常に天秤にかけられると.